全人類にリラックスをもたらすブログ

この世は幻想。色即是空。 趣味は古典読解と寺社巡り。心の平和がテーマです。全人類に安らぎあれ!

『超悟り入門』苫米地英人先生  ~悟りから始めよ~

ご覧いただき有難うございます。

 

 

 

●まず

本の紹介に入る前に、「良い本とは何か」という初歩的なことを考えてみましょう。

良い本とは一体、どのような本を言うのでしょうか。

 

 

例えば、ニーズに応えてくれる本は良い本と言えるでしょうか。

獲得したい知識や疑問に思うことがあれば、それに応えてくれる本を手に取る。日本の古代史に興味がある人は、古事記日本書紀を読むことでしょう。読んだ後、「これはいい本だった」と思える本というのは、得てして自分のニーズを満たしてくれているものです。

 

逆に、「つまらない本だった」と思うとき、その本には自分が期待していたものと違ったことが書かれていたことになります。既知の内容であったり、著者の論拠が薄弱な単なる意見だけが述べられていたりすれば、その本から得られる情報に魅力があるとは言い難いでしょう。

 

 

このように、読者のニーズに応えてくれるという視点は、良い本を求める上で有効なものと言えます。ただし、ニーズとは、結構ばらつきのあるものでもあります。ある読者のニーズは、他の読者にとってはどうでもいいことも多々あるのです。たとえベストセラーになった本であったとしても、興味のない人間には、そこら辺の本と何ら変わりがありません。

 

ということは、突き詰めれば良い本とは、人の数だけ存在するのではないか、と考えることができるでしょう。どんな本も読み手によって、良い本になったり、つまらない本になったりするわけです。

 

良い本もそうでない本も、本を求める読者の数だけ存在する

古本屋の奥の奥で埃を被っている本も、ある時、その本に価値を見出した人間が現れれば、瞬く間に「良い本」に変わるのです。

 

それでは、全ての本がそのまま良い本なのかと言えば、そうではないでしょう。潜在的には良い本であるはずですが、それでは範囲が広すぎる。もう少し範囲を限定するために、今度は「良さ」(Good)を考えていきます。

 

 

事の良し悪しは、それこそ人の数だけ存在し、しかも時と場合によって、ダイナミックに変化するものです。だから○○が良くて、○○は悪い、という判断は本来無意味な行為です。

 

 

私が、「良いこと」を考える際に注目することは、抽象度の高さです。

自分にとってだけ良いことよりも、自分を含めた他者にとって良いこと、はたまた、全人類にとって良いことの方が、抽象度が高く、「良さ」に磨きがかかります。

 

卑近な例を言えば、「ナンパ成功術」というテクニック本よりも、「他者の喜びを第一に考えなさい」と主張する本の方が、社会的に好ましい本であると誰しも思うはずです。

 

 

両者を分けるポイントは第一に普遍性、第二に利他性にあると考えます。

普遍性があるとは、簡単に言えば、場所を問わず、今後100年、1000年に渡って社会的に「良さ」が認められるということです。必要性と言い換えてもいいかもしれません。

もちろん場所を問いませんから、翻訳し輸出しても、世界各国で「素晴らしい本だ」と認められることでしょう。

 

次に、利他性とは、自分以外の他者の利益を考えることをいいます。この利他性は、社会的に「善」とされる行為の基本であると思われます。一般に、自己利益だけを考えている人よりも、利他的行動をとる人間の方が、「良い人」として認識されることからもお判りでしょう。

 

以上を総括すると、普遍性と利他性を兼ね備えた本を「良い本」と見なすことが出来ます。

そして今回ご紹介する本は、まさしく普遍性と利他性を兼ね備えた、「良い本」であると明言します。

 

 

 

●内容

前置きが長くなりましたが、今回ご紹介する本は、私が尊敬してやまない苫米地英人先生著、『超さとり入門』(徳間書店)です。

     <https://7net.omni7.jp/detail/1106978155

 

 

率直な感想は、「身震いした」。感動で。

この本で救われる人も確実にいるだろうなと思いました。そのくらい、強烈な本です。

しかし、内容は決して難解ではありません。むしろかなり簡単です。悟りをここまでわかりやすく書いた本は、他にはないと思います。

 

ただし、「難しい概念をいとも簡単に説明するなんて、さすが博士!」と思うのは早計かと。

なぜなら、悟りとはそもそもそんなに難しいものではないからです。悟りと聞いて、なんとなく難解な感じがしてしまうのは、我々が勝手にそう思い込んでいるだけなのです。

 

悟りを理解するだけなら、小学生でもできる。高校生ならもちろん、大学生、社会人は当然のごとく理解することができるのです。このことは、本書において博士が何度も指摘しています。

 

 

悟りを語るにあたって大事なことは、悟りの理解の先です。ここからが本書の本領発揮でしょうか。

まず、悟りの理解は誰にでもできます。しかし、残念ながらそれだけでは不十分です。悟りには「体感」が必要なのです。

 

 

体感とはどういうことか。喩えれば、蕎麦を実際に食べて蕎麦の味を知るということです。

蕎麦の味を他人から聞いたり、本で読んで知ったりすることはいくらでもできます。しかし、それでは蕎麦の味が分かったことにはなりません。理解と体感の差とは、このことを言うのでしょう。

 

蕎麦の味は、蕎麦を食べないと絶対に分かりません。蕎麦を食べた瞬間に、「これが蕎麦か」と知る。これが体感的理解というものです。

そして、一度蕎麦の味が分かれば「蕎麦ってこういう味かな?」と誰かに尋ねることはしないでしょう。悟りも同じです。一度悟りを体感すれば、悟りに疑問符「?」が付くことはありません。

 

 

では、いかにして悟りを体感するのか。その答えは本書にあります。私がここで述べることもできますが、ここはぜひ、皆さんが本書を手に取って、自分で知ることをお勧めします。悟りの体感的理解を助ける機能音源CDも付属しているので。

 

本書は2000円超と、少しお高めな感じがしますが、正直にいうとかなり安いです。

まずハイレゾ機能音源がすごい。異次元

次に、空を形式的に定義した論文が巻末に掲載されています。これだけでも2000円は安いと思います。

 

 

それでは、本書の内容は悟りの理解と体感だけなのかと問われれば、それは違います。

本書では、悟りのさらにその先に焦点を置いています。そこが本書の最大の魅力です

 

題名からもわかる通り、本書は悟りを超えて、その先を生きなさいと読者に訴えます。

 

 

悟りの先とは、なにか。

それは、利他です。圧倒的利他

 

 

本書を読めばわかるように、悟りの理解と体感までは、実は「利己」です。「悟りたい」という煩悩を徹底的に肯定する利己的行為なのです。

 

そして本書を通じて悟りを理解し、体感した後は、悟りについて考える必要は特にありません。なぜならそれは利己的行為だからです。

ここで重要になることは、「何のために悟るのか」という動機です。

 

 

本書を手に取った多くの人は、悟りについて多かれ少なかれ興味があることでしょう。悟りとは何か知りたい、あるいは、悟ってみたいという人もいるはず。もちろん知識として悟りを知ることには何の問題もないと思います。ここまでは、「利己」です。

 

しかし、それだけではもったいないよ、というのが本書の中で説かれていることです。

利己のままでいいのですか」と読者は説かれるわけです。

当然、利己のままでいたい人は少ないことでしょう。(そう思いたい!)

こうして悟りを理解した後は、利己から解放される必要が生じてくるのです。

 

そしてこれは、「利他になるために悟りを体感する」とも言えるのではないでしょうか。

すなわち、我々が悟る理由や目的というのは、「利他」になるためである、と。

つまり、本書において、悟りとは目的ではなく手段なのです。

 

 

それでは、利他的行為とは具体的に何をすればいいのか、そのためのヒントもいくらか盛り込まれています。

 

以下は私の解釈ですが、利他的になるためには、自分と他者の両方の観察が必要なのではないかと思います。利他的行為の第一歩は、他者の喜ぶことはなにかを考えてあげることです。

自分が欲しいものを他者に押し付けても、それは利己の延長にしかならないでしょう。

ですので、なるべく自己を「抜く」必要が出てくる。

しかし、自己をいったん抜くといっても、それは簡単なことではないと思われます。抜くべき自己を対象としてしっかり観察しなければならないからです。この、自分の観察行為のことを、古くから「瞑想」と呼んでいます。(ヨーガ行者の王、成瀬正春先生はそうおっしゃっています)

 

 

他者の観察と自己の瞑想。これがバランスよく保たれていれば、自分にとっての利他的行為は自然と見えてくるのではないのでしょうか。そしてこれらの根っこに、悟りの理解があるのです。悟りはスタートに過ぎないのです。

 

 

 

●最後に

普遍性と利他性を兼ね備えた本書は間違いなく良書。おそらく、今後数世紀にわたって読み続けられる本ではないかと思われます。CDや空の形式的定義なども本書の価値を高めているとは思いますが、小さな要因でしょう。

 

本書の価値は、利他的精神を読者に伝える点にあります。圧倒的利他の体現者である著者の文章には、凄まじい説得力がある。読者にはこの利他的精神を感じ取って頂きたいと思います。

 

最後に、お気に入りの文を。

 

 

「皆さん、どうか、釈迦になってください。他人のために生きる聖人となってください」

 

 

それではまた。

人類弥栄!

『「カンガルーケア」と「完全母乳」で赤ちゃんが危ない』久保田史郎先生  ~利他に生きよ~

ご覧いただきありがとうございます。

 

 

今日ご紹介する本は、私が尊敬してやまない久保田史郎先生著、

 

『「カンガルーケア」と「完全母乳」で赤ちゃんが危ない』(小学館

<https://cdn.store-tsutaya.tsite.jp/images/jacket/09998/9784093798679_1L.jpg>

 

 

2014年11月に出版された本書は、全日本人必読書である。間違いなく。

その理由は後々説明するが、簡単に言えばお産にかんする知識というよりは、普遍性のある「知恵」に近いことが書いてあるためである。これを読む前と後ではお産に対する見方が大きく変わる。出産を控える妊婦さんはもちろん、看護師、助産師、そして一般の社会人も、知識として知っておいて損はない内容であると思われる。

 

 

私が久保田先生を知ったのは、Youtubeの動画内。

同じく医者である細川博司先生のチャンネルでお見受けしたのが初めてだった。先生のお話を耳にするまで、出産や新生児の健康状態等に全く興味がなかったわけだが、一度動画を視聴したら、止まらなくなってしまった。

 

ハマってしまった理由は、第一に、先生の説明が分かりやすかったから。第二に、全く知らない分野の知識を得られる喜び、そして第三に、いかに最近の日本のお産が間違っているか、これを知ることができたからである。

第三の理由は、言い換えれば「お産の闇」とも言えるだろう。そう、日本のお産には闇がある。これは誇張でも何でもない。そして私は、久保田先生のお話を通じて幸運にも間違ったお産の恥部を認識する機会を得たわけである。

 

 

当ブログでは、過去の記事において久保田先生の動画を紹介しているが、残念ながら部分の寄せ集めという形式になってしまっている。もちろん、部分的な情報でありながら、先生のご意見は我々の目を開かせてくれている。少なくとも私は目が覚めた感じがする。ただし、私としてはより体系化された状態で情報を発信したいと思う。

そういう次第で、本書を手に取ったわけである。

 

 

まず、この本を買っていない人は、今すぐ購入した方がいい。なぜなら、いつ絶版になるかわからないからである。とても絶版にすべき内容とは思えないのだが、正しいことを言うとすぐ潰されるのがこの世界である。何があるかわからない。

また、その内容から今後価値が高まる可能性も十分にある。日々価値の変動する貨幣を握り締めるよりは、価値の高い本を資産として持っておく方が遥かに賢いと私は思う。

 

 

本書の内容を簡単に紹介するその前に、少し考えておきたいことがある。

それは、我々が「この世に生を受けることの意味」についてである。本書を読んで、この世に生まれてきたこと、その目的とはなんなのか、これを考えさせられたからである。

 

 

我々が生きていく理由とは、100人いれば100通りの答え方があるだろう。ただし、抽象度を上げれば、答え方は限られてくるように思える。

多くの人にとって、幸せな人生が好ましいはずである。自分の人生における幸せはもちろん、他者の人生における幸せも同様に重要である。そう考えることができれば、自然と生きる理由や目的は浮かび上がってくるのではないだろうか。

 

それは、「他者を幸せにすること」である。

他者の幸せを考えてあげること、そして他者の幸せが、そのまま自分の幸せになる、ここに我々の生きる目的があると私は考えている。

 

生を受けたすべての人間が、利己ではなく利他の精神を発揮できれば、この世は瞬く間に幸せに包まれる…。

 

 

このように私が考える理由は、本書を読めばなんとなく理解されると思うが、端的に言うと、他者(妊婦や胎児、そして新生児)のことなどどうでもいいという姿勢が諸悪の根源だからである。

間違った知識や情報を鵜呑みにして、あるいは無批判に発信することの罪は極めて大きい。なぜなら情報の発信側は、結果的に社会に害をもたらしてしまっているからである。

もちろん、彼らには彼らなりの善意というものがあって情報を流しているのかもしれない。あたかも、「これらの情報は、あなたのためなのです!」と言わんばかりに。

しかし、彼らの致命的な間違いを、善意や利他の気持ちから生じた誤りということで済ませてしまって果たして良いものなのだろうか?

 

それはあまりにも無責任な話ではないだろうか。また、彼らの「利他」は上辺だけのニセモノで、実は自己保身が裏にあるという「利己」である可能性も否定できない。なぜなら、間違っていると指摘されているにもかかわらず、聞く耳を持たないままだからだ。

本当に利他性を重んじているのであれば、発信する情報を見直したり、改善したりするはずだろう。それをしてこなかったということは、自己保身だと追及されてもおかしくない。

 

 

自分の失敗を隠したり、無かったことにしたりする姿勢とは、利己以外の何物でもない。

もちろんこれは医学界に限った話ではなく、世界各地、いたるところで聞く話である。

共通することは、情報発信者の行き過ぎた利己的精神である。

 

結局のところ、利己を止めない限り、利権は崩れないし、正しい情報が発信されることもない。逆に言えば、今この瞬間から、全人類が「利他」を本気で実践し始めれば、世界中の人間に幸せが訪れるのではないか。

 

 

本書において、私は久保田先生に圧倒的利他性をみた。赤ちゃんに対する利他である。

すべての赤ちゃんが、これからの一生を有意義に、元気よく生きていけるように、最大限のサポートをする。これこそ、久保田先生が見せる利他である。

 

 

読者には、本書にみなぎる久保田先生の利他をぜひとも感じ取って頂きたい。

 

 

 

●内容紹介

それでは、本の内容を簡単に紹介したい。

本書の理解は、3つの軸を念頭に置けば簡単である。

第一に、知恵の重要性。第二に、体温管理。第三に、生理的現象。

 

 

まず、第一の軸について。

ここでいう知恵とは、お産にかんする知恵である。知恵とは長い歴史の中で人類が発見した問題解決の「カギ」に相当する。例えば、乳母や産湯。乳母は必要性があったからこそ、多用されてきたはずだ。もちろん産湯も同じ。日本人が「必要だ」と思わない限り、そこに存在しているわけがない。

 

久保田先生は、本書においてその存在理由を明確に述べている。

 

 ・お母さんは出産3日経たないと母乳が出ない。母乳が出るまでの間、乳母が 赤ちゃんに栄養を与える。

 ・産湯は外気温を温めるために使用。

 

これらを無視して「カンガルーケア」、「完全母乳」を推進することが本当に正しいことなのだろうか、疑問である。

 

 

続いて、体温管理について。

前提として人間は恒温動物といい、体温を一定に維持する動物である。体温を維持するために生きているわけだから、当然、急激な気温の変化には弱い。

大人でさえ、気温の変化には弱いわけだ。赤ちゃんならなおさらだろう。

 

赤ちゃんは生まれてくる前はお母さんのお腹の中にいる。久保田先生によれば子宮内温度はおよそ38度。ここから25度の分娩室に移されるとなると、気温差は13度。

13度の気温差といったら、かなりの変化である。体の弱い大人であれば、すぐに体調を崩して倒れてしまうだろう。

 

いきなり13度の気温の変化にさらされる赤ちゃんは、一過性の低体温ショックに苦しむことになる。赤ちゃんは体温を上げるために必死に全身を震わせるのだが、ここ消費するのが、糖分である。

糖分は脳のガソリンで、熱産生に欠かせないものである。少し消費する分には問題ないはずだが、低体温の赤ちゃんは大量に糖分を消費することになる。こうして赤ちゃんは、「低血糖症」に陥るのである。

 

私も先日経験したが、低血糖になると頭がぼんやりする。何かをしようにも体がだるく、やる気も起きない。これはまずいと悟り、私は朝起きてまず初めにチョコレートを食べるようになった。とにかく糖分だけは摂っておくようにしている。

 

 

さて、大人でも本能的に「ヤバイ」と感じる低血糖。赤ちゃんに影響がないはずがない。

本書において久保田先生は、

 

「糖分が赤ちゃんの脳神経細胞の発育の栄養源になる。逆に早期新生児に低血糖症が持続すれば、脳に障害を残す危険性がある」

 

と述べている。そしてこれが、発達障害の危険因子であると指摘する。

 

 

発達障害の原因は低体温症と低血糖症

これこそまさに、本書が言わんとすることである。

 

 

それでは最後に、三つ目の軸、「生理的現象」についてみていこう。

本書で述べられるように、赤ちゃんの体重減少、黄疸の出現、そして飲んでも吐く行為は、教科書に「生理的現象」と記されているように、自然現象として認識されている。これらは換言すれば、「当たり前」の現象であり、別段問題視するようなものではないということになる。

 

しかし、それは違いますよ、というのが久保田先生の主張である。

ちゃんと対処すれば、これらの生理的現象はすべて防げるはずなのだが、なかなか気づく医療従事者がいない。その理由は、学び始めの段階で、先人と教科書から「これらは生理的現象です」と教わってしまうからだろう。

これはかなり深刻な問題であり、久保田先生に敵が多い理由も想像できる。なぜなら動画内で先生が仰るように、「教科書を書き換えることは大変なこと」だからだ。

 

 

なぜ、教科書を書き換えることが難しいのか。背後には、表にしたくない利権があることも想像できるが、突き詰めれば、利己に染まった人間が上にいるからではないだろうか。

彼らは自己保身のために自分の失敗を認めるわけにはいかないし、そのような人間に媚び諂うことで今の地位にいる人間も同様に、上の顔を汚すまいと失敗を隠してしまう。

 

これが現代のお産から事故が減らない最大の原因なのではないか。

そう思わざるを得ない。

 

 

結局のところ、我々が住む現代社会というものは、利権が先に存在し、そこに利己的な人間が集まることで成り立っている。医療はとてつもなく大きな利権の一つであること明らかで、お産もその一部であるのだろう。

 

しかし、お産という生命誕生の場に利己的な人間ばかりいるのはまずいと思う。

本書を読んだ人間は、誰しもそう思うだろうと想像する。なぜなら、お産という一瞬間に、赤ちゃんの人生がかかっているからである。

誰だって、生後一週間で一生の障害を背負わされたくはないだろう。しかもそれらの障害は、正しく対処すれば、取り除くことができるのである。それにもかかわらず、お上が決めた教科書で教わったことだけを忠実に実践し、事故を増やしていくこの現状。

 

 

つくづく、自分の身は自分で守らねばならないと思わされる。

その方法はいたって簡単。

 ①大量の知識

 ②批判的吟味

これだけである。①と②は両方必要。どちらが欠けていてもダメ。

大事なことは、選択する一瞬のための労力を惜しまないこと。

 

 

我々は生きるために学び、学ぶために生きているのだから

 

 

それではまた。

これから生まれてくる赤ちゃんと、妊婦さんに喜びを。

映画『パラサイト 半地下の家族』より -本当のパラサイトとは誰なのか?-

<ご覧いただきありがとうございます>

<(C)2019 CJ ENM CORPORATION, BARUNSON E&A ALL RIGHTS RESERVED>

 

 

今日1月9日(金)の金曜ロードショウにて、韓国映画パラサイト 半地下の家族』を視聴。

 

率直な感想は、「パルムドール受賞は頷ける」…ほど面白かった。

徐々に狂いだす計画と、狂いだす人々。狂人と狂人が重なり合う様子が最高だった。

 

もちろんこの映画は、単なる狂人たちのパレードではない。それだけでは絶賛される理由にはならないと思われる。

 

この映画を見た人の多くは、所謂「貧乏人」のリアルな生活観に触れ、格差社会の悲劇を体験することになる。貧乏人の住むところは地下か半地下で、金持ちが住むところは地上という風に、非常に分かりやすく二項対立が提示され、当然、貧乏人の生活は苦しく、過酷なものとして描かれる。

 

こうした貧乏人と金持ちという二極構造の中で、前者が後者に寄生(パラサイト)する、これが映画のタイトルから連想されるプロットである。

 


観客の大半は「格差がすごいな、韓国は」という感想を抱くのではないだろうか。

しかも、最後のシーンからわかるように、この格差が消滅するとは考えにくい。貧乏人は貧乏の輪廻に閉ざされた世界に生きるという「恐怖」とともに、映画の幕が下りていく。格差とは恐怖であり、そして格差の中では無力な人もいる、こうした実態をこの映画はうまく表現していると思われる。

 

 

ただし!の分析は甘いと私は考える。

たしかにポン・ジュノ監督は、格差社会に生きるものの無力さを我々観客に伝えていた。

おそらく、こうした感想は多くの人が共有することだろう。

 

しかしこれはあまりにも浅薄な感想ではないだろうか。

「貧乏人VS金持ち」という構図は、厳しく言えば「ありふれている」。古今東西、時代を問わず同じような話はゴマンとあり、貧乏人が金持ちを何らかの方法で攻撃するというプロットも、捻られているとは言い難いものだ。

 

もちろん、監督はこれらの構図があきりたりなものであるということは百も承知のはず。そのため監督は、この構図を映画への導入剤として利用したと見るべきだろう。すなわち、二極構造(厳密には金持ち→貧乏人→超貧乏人という三極構造だが)及び金持ちへのパラサイト行為はあくまでも物語が繰り広げられる≪舞台≫にすぎないと私は考えている。

 

したがって、当映画の分析および感想において、韓国の格差社会の実態であるとか、悲劇・無力感を持ち出すことは、悪くはないが視点が低いと言わざるを得ない。私からすれば、こうした分析において、視点は舞台それ自体にあって、舞台の上で展開される表現活動にはないように思える。

 

 

それでは、監督が表現したかった内容とは何か。それを本稿で考察する。

なお、本稿以下はネタバレを含みます。ネタバレが嫌いな方は、映画を視聴してから記事をご覧になってください。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

ポンジュノ監督がこの映画の中で語っている内容とは、一体何か。

それを考察するにあたって、まずは「パラサイト」という言葉が示唆するものを考えていこう。

 

パラサイトとは文字通り、AがBに寄生することを意味する。映画の中では、Aが半地下の住民キム家で、Bが金持ちパク家である。キム一家は頭脳と演技力を駆使してパク家に寄生することに成功するが、後に先住寄生おじさんがいることが発覚する。このおじさんをCとすれば、BにはAとCが寄生していることになる。ちょうど、Bに群がる寄生虫のように見えてくるのではないだろうか。

 

しかし、先ほど指摘したように、貧乏人が金持ちに寄生するという筋書きは、ありきたりであり、ぱっとしない。だから、監督は「パラサイト」という言葉を、このような分かりやすい図式で解釈するようにと、観客に求めているわけではないと予想できる。

 

それでは、「パラサイト」(寄生する)とは何を意味しているのだろうか。

私は、この言葉を「社会に寄生すること」と解釈している。映画の中で展開される「パラサイト」は単純に「貧乏人が金持ちに寄生する」という意味ではなく、より抽象化して「社会に寄生すること」と理解すると、新しい発見がいろいろ出てくる。

 

社会に寄生するとはどういうことかといえば、簡単に言えば、「社会に機能を提供しない存在になる」ということに等しい。言い換えれば「職業を放棄する存在」ということにもになる。

 

 

ここで職業という言葉が出てきたが、そもそも皆さんは、職業の定義とは何かを考えたことがあるだろうか。職業の定義は「社会に機能を提供すること」である。例えば、警察官の職業は、「治安を提供すること」、消防隊員の職業は「火災から建物・人々を守ること」など、自分が持つ機能を社会に提供することを、職業と呼ぶ。もちろん、どんな機能でも社会に提供できれば、それが職業となる。収入はなくても、機能を提供していれば、それは立派な職業と言えるのである。

 

中には、「カネを稼ぐこと=職業」と定義している方もおられるだろうが、それは職業ではなく「ファイナンス活動」、両者は全くの別物である。例えばIT長者ビル・ゲイツの職業は慈善活動家であり、プログラマとしての活躍はファイナンス行為ということになる。

 

 

職業とは、社会に機能を提供すること。これを放棄したり、または、いい加減にしていたりすると、その人は社会に寄生する存在として見なされる。この認識を踏まえた上で、作中におけるパラサイトの実態を観察していくと、ある疑問が浮かび出す。

 

それは、「本当のパラサイトは誰か?」という疑問である。

例えば、先ほどパラサイトAとして挙げたキム一家は、本当に寄生的存在と言えるのだろうか。なぜなら、彼らは皆、職業を持っているからだ。経歴詐称とはいえ、彼らは家庭教師(長男・長女)、家事担当(母)、専属運転手(父)として採用され、パク家の生活を支えていたではないか。つまり、彼らには提供する機能があったということになる。

パク家がいない間にはやりたい放題やっていたわけだが、誰も自らの機能を放棄してはいないため、職業に従事していなかったとは言えないだろう。

 

 

それでは、「あの先住おじさん(C)こそ、パラサイトなのか!」というと、それも違うと私は考えている。なぜなら彼は、そもそも社会に参加していないからである。妻である前任家政婦の庇護下にあった彼は、長い間、日の当たらない地下で暮らしており、パク家からも社会からも隔絶された状態にあった。つまり、厳密に言うと彼には、寄生する社会というものすら存在していないのである。したがって、社会に属していない彼には失う職業すらなく、社会にパラサイトしているとも言えない、と私は考える。

 

キム家(A)も先住おじさん(C)もパラサイトではない。とすると、この映画の中で本質的にパラサイトである存在とは、一体誰なのか。それはパク家(B)の中にいる、あの人...。

 

 

そう、パク婦人である!

私が思うに、パク婦人こそ、劇中における本物のパラサイトである。そのことに一瞬で気づいた私は、婦人の動向にばかり気が向いてしまった。

 

彼女がパラサイトであることは、「社会に機能を提供しない存在」であることを念頭におけば、すぐに理解されることと思う。

映画を見ればわかるように、失礼な言い方だが、彼女はバカである(笑)。教養がある、あるいは頭がいいとはお世辞にも言えない。極めつけは、「家事が全くできない」、そして「子どもたちの世話ができていない」、これがパラサイトたる所以である。

 

 

なぜ、家事と育児ができないことがパラサイトにつながるのか。

それは彼女が社会に機能を提供できていないからである。ここでいう社会とは、パク家というユニットのことである。これは、家庭は社会の最小単位といわれることからも明らかではないだろうか。家族の構成員として、それぞれの役割は決まっているわけだ。言い換えれば、社会の構成員として、提供すべき機能が決まっているということになる。

 

パク家の主はIT会社の社長としてバリバリ働き、家族を養う。長女は勉強、長男は元気に遊ぶこと。当然、パク家の中では母親の機能は育児と家事と決まっている。これは夫人が育児と家事に苦戦する描写があることから示唆される。

 

ところが、パク婦人は自らの社会的機能を明らかに放棄している。子供たちとのコミュニケーションは大して取れていないし、家事もヘタクソでほとんどをお手伝いさんに丸投げしている様子。

長男の奇行にかんしては、長女が「あれは演技」と指摘するように、母親よりも娘の方が詳しいという有様である。また遠足からの帰宅後に夫人がラーメンを食べようとする描写がある。その時、長女が「私がこのラーメンを好きなことを知っていて、なんで呼んでくれないの」(正確に覚えていないので予想)というセリフを吐いていた。これは、親子の間でコミュニケーションができていないことの証左となる。

 

 

育児も家事も中途半端である様子から、パク婦人は自らの社会的機能を放棄している、本当のパラサイトであると私は判断した。彼女は社会に属していながら、何の機能も提供しないし、何も生産していない。夫にパラサイトする存在に過ぎないのである。それに対して、彼女以外の人間は、皆、何らかの機能を提供している。したがって、提供する機能の有無がその人がパラサイトであるかどうかを判別する指標になっていると見なすことができる。

 

 

パク婦人はただのラッキー人間。夫に拾われたから「地上」で生活することが出来ているだけなのだ。その実態は、どう考えても社会に寄生する存在、「パラサイト」に他ならないのである。

だから、私としてはキム父は、パク父ではなく、パク婦人を攻撃するべきだったと思う。「パラサイトは我々ではなく、あなただ」、と言って。

 

 

しかし、以上の分析を短時間で行える観客はどれほどいるのだろうか。多くの人は、キム家や先住おじさんらがパク家に寄生する様子だけに注目する、そのように私には思えてしまう。

もちろん、ポン・ジュノ監督も同様のことを危惧していたに違いない。そこで監督は、「こいつがパラサイトですよ」と分かりやすくインデックスを立てることにした。それが、「バカっぽい」という特徴である。

 

 

ん・・・・・?

 

 

監督が立てたインデックス、「バカっぽい存在=パラサイト」。

皆さんは、劇中で、意図的に「バカっぽい」あるいは「抜けている」演技を見せた役柄にお気づきだろうか。もちろんこの映画はブラックコメディ・スリラーというジャンルであるため、コメディ色が至る所で見受けられるが、「別にここでコメディ色を出さなくてもいいよね」と思う箇所が私にはあった。すなわち、監督が何らかの意図をもって、自らが設定したインデックスを特定の役柄に埋め込んでいる。

 

その役とは、何か。

 

それは、警察・医者・公務員である。

つまり監督は、彼らが社会寄生階級であることを暗に示唆しているのである。

 

もちろん彼らは皆、社会に必要な機能を有する存在である。彼らがいなければ社会は回らないと断言してもいいだろう。ところが(私の予想では)この映画においては、彼らはパラサイトとして描かれている。すなわち、彼らには何らかの欠陥があるということが示唆されるのである。

 

その欠陥は、先に述べたパラサイトの定義を思い出せば理解できる。つまり彼らは、監督のメガネを通せば、「社会に満足のいく機能を提供していない存在」と見なされているということになる。あのパク婦人のように、機能の提供を期待されている存在でありながら、大して機能を提供していない(又はできない)とき、その存在は劇中では<パラサイト>なのである。

 

 

監督の心中はこのようなものではないだろうか。

あなた方は社会に必要な存在であるはずだ。だから生活は保障されているし、給料もそれなりに出ている。それにもかかわらず、あなた方は大して社会に機能を提供しないで、自分たちの地位に甘んじているだけだ。それでは社会に寄生しているといわれても、おかしくないよね」と。

 

 

以上のように考えると、私の目には、この映画はブラックコメディ・スリラーとしては映らない。

むしろ、権力や社会寄生階級に対する痛烈な批判映画に思える。

 

皆さんは、どう思いますか。

 

 

もちろん、他にもいろいろな発見があると思います。楽しめる一品。

狂人好きの私としては、前任の家政婦おばさんが雨の中、インターホン越しに顔を見せる瞬間が激アツ。あの顔はすごい。

 

 

それではまた。

人類弥栄!

-差別と偏見をなくす- 女性は子供を産む道具ではない

<ご覧いただきありがとうございます>

 

 

2021年一発目の記事は、差別について。特に女性に対する差別。

差別を取り上げようと思った理由は二つある。一つは単純に、差別は21世紀の世の中において、存在するべきではないと思うから。もちろん私は、差別が大嫌いである。差別する人間の顔は見たくもないし、差別される人の顔もまた見たくない。

 

もう一つは、自分が他者を差別している現状(あるいは、されている現状)に無自覚な人が極めて多いことに対し、虚しさを感じたためである。特に日本人よ。

 

 

異国の文化を取り入れ、自国風にアレンジしたり、外国人と交流そして共存をしてきた歴史を持つ日本人の多くは、表立って他者を差別し、偏見を抱くことがあまりない。普段の生活で、他者に敵意むき出しのまま接する日本人を、あなたは目にするだろうか?

おそらく、そういう特殊な人は日本にはあまりいないと思われる。

 

ただし、目にする(耳にする)ことがないからといって、そこに差別・偏見がないとは限らない。むしろ、認識されないくらい文化の深いところにまで浸透してしまった結果、歪んだ形で差別が肥大化し、我々の無意識を支配している可能性がある。今回は、そうした見えない差別にメスを入れていく。

 

 

日本における見えない差別の被害者として最初に取り上げたい存在が、女性である。

過去の記事で、「これからは女性の時代である!」と叫んだように、私は女性が生き生きとしている社会こそ、健全な社会であると考えている。その理由は過去記事で述べたように、女性には神聖さが宿っているということ。そして、社会を支配しているのは、実は女性であるということに気が付いたためである。

 

女性は、神聖さを秘めているからこそ輝けるし、知性があるから人類を引っ張ってこれたのだと私は思う。ところが儒教思想が支配的となった中国、朝鮮半島そして日本においては、女性が蔑まされてしまった。女性は男性の所有物として認識され、社会的地位も低いままである。

中には、中国の土地制度と比較して、日本の女性には土地所有権が認められていたというファクトを引き合いに出し、「女性と男性は平等だった」と主張する人もいる。たしかに、他国に比べ、日本人女性の社会的地位が高かった面もある。しかしだからといって、女性に対する差別や偏見がなかったことにはならない。

 

 

日本における、女性に対する差別の最たるものは、「女性は生理があるから不浄な存在である」というもの。これは正直言って、かなり恥ずかしいことである。

 

まず、上の一文は、論理ではなく情動である。「女性は定期的に血を流す→血は穢れであり、忌み嫌われるもの→女性は穢い存在→差別してもいい」ということになるわけだが、これは単純化すると、「血は穢いから、皆嫌いだ。だから女性も穢いし、嫌われていいんだ」と表現することができる。

 

しかし、残念ながらこれは論理でもなんでもなく、ただの情動に過ぎない。

情動であるということは、厳しい言い方をすれば、動物と同レベルということになる。ともすると人は、動物よりも人間の方が賢いと思ってしまうわけだが、「嬉しい、楽しい、怖い」といった情動を抱く時点で、人間と動物には差がない。恋人とのセックス中に「気持ちいい」と感じている人間は、道端でオナニー中のサルと変わらないということだ。

 

したがって、情動に基づく差別を容認している限り、日本人はサルと同レベルということになる。もし、こうした女性に対する差別を「文化」というベールで括り、世界に発信してしまったとすれば、日本人は全世界に対し「我々はサルです!」と宣言しているようなものである。これは、極めて恥ずかしい行為ではないだろうか。

 

 

女性に対する差別や偏見は、まだある。それは盲点であるかもしれないが、「女性は子供を産むべきである」という偏見である。これは、言い換えれば、「子供を産むことこそ、女性の社会的機能である」となるわけだが、私はこの偏見が、吐き気がするほど嫌いである。どのくらい嫌いか?その理由を説明することすらイヤなほどである。

 

本当に嫌いなわけだが、「女性は子供を産め!」、「女性は子供を産む義務がある」と平気で放言する人間が日本には多すぎる。そのため、そうした人間を一掃するべく、あえてここで論じていくこととする。

 

 

まず前提として、女性と男性は人格が平等に扱われる。これは進化した人類であれば、誰もが認めることであろう。もちろん、何でもかんでも平等にすればいいというわけではない。生殖器の違いから分かるように、人間には男と女、二種類いることが分かっている。そのため私は、両者の生物学的機能を無視し、無理やり混在させることには反対である。

例えば、産科のプロ、久保田先生が「男の助産師は嫌でしょ。助産師は女性だけがやった方がいい」と仰っていたように、出産のお手伝いなど、女性が担当した方がいい機能はやはり女性が担うべきである。普通の感覚として違和感のあることを、「男女平等だから」という理由で導入してはならないと私は思う。

 

以上をまとめると、「男女は平等、しかし機能は分けるべき」ということになる。それでは、両性の機能とは、一体何なのだろうか。両性に特有の機能が分かれば、それが各性の定義として採用できる。

 

私は、今のところ、両性を分ける違いは「ない」と考えている。

例えば、女性を「妊娠・出産機能を持つ存在」として定義したとしよう。男性は、妊娠出産ができない。これは、DNAレベルで刻み込まれた、生物としての運命ということになるだろう。

しかし、中には妊娠・出産する機能を持たないで生まれてくる女性も少なからずいる。あるいは、事故や病気が原因で、機能を失った女性も確実に存在するだろう。

こうした、社会がある意味、強制的に期待している(と考えられる)機能を持たない女性は、私が設定した定義に当てはまらず、女性ではないということになる。

また、技術の発展に伴い、人工子宮を備え、子供を産める男性が登場することもあり得る。

彼らは女性ということになるのだろうか?

 

このように、いろいろな可能性を考えていくと、男性と女性を完全に区別することは難しいことがわかる。今後、両性の差異はなくなるといっても過言ではない。

 

しかし、我々は社会生活を営む上で、「なんとなく」両性を区別することができている。厳密な定義は抜きにして、「なんとなく」で両性を使い分け、我々人類は長らく生き延びることが出来てきたわけだ。逆に言えば、この世には、「なんとなく」で運用した方が便利なものがあるということが言える。

 

とはいえ、暫定的な定義は必要だろう。

ここでは、「現時点で」という条件付きで、「生体として妊娠出産機能をもつと予想される存在=女性」ということにしておこう。

 

 

妊娠・出産機能を持つ存在、それが女性。これは、全保守層、またはほとんどのお年寄りが共有する考えであると思われる。私が尊敬する先生方の中にも、「女性は子供を産む義務がある」とか、「女性が子供を産んでもらわないと困る」と仰る人が少なからずいる。「お年寄りだから仕方がない」と、諦念とともに見守りたいところだが、本稿は「女性原理主義」の立場を貫き、痛烈に批判することにする。

 

出産は女性特有の機能であり、女性だけしか経験できないことである。これは、女性という生物に生まれてきた人に与えられた特別な機能であるという見方もできると思う。そうすると、自らが手にした機能を発揮すべきだと考える女性も多くなるし、当然、女性を取り囲む人々もまた女性の出産に大いなる期待を抱いてしまうことだろう。それゆえ、「子供を産むことがあなたの義務なのだよ」と真面目な顔をしながら言ってしまう人間が後を絶たないという現象が生じる。また、最悪なパターンでは、何らかの原因により妊娠機能を失った女性に対し、心無い発言をする人も生まれてしまうわけである。

 

 

しかしそもそも、「女性(男性)は○○しなさい・すべきだ」という発言は、差別的ではないだろうか。21世紀の世界において、男女の人格は平等であることがハッキリしてきた。それにもかかわらず、互いに「○○すべきだ」と言い合う現状は、平等に価値を見出した精神と相容れないと思われる。

また本来、自分の機能を行使するかどうかは、自分が決めることである。したがって、子供を産むかどうかは、女性の自由ということになる。子供を産んでもいいし、産まなくてもいい。なぜならそれは当人が判断することだからだ。もし、「あなたは子供を産みなさい」と誰かに言われたら、女性は「なんで?」と問うべきである。「私の自由でしょ」と。

 

中には、「機能があるのだから、使わないともったいない」と考える女性もいるだろう。それを自分の信念として抱いている女性がいてもOK。ただし、それを他の女性に期待することは間違っていると私は思う。

 

ここで重要になるのが、自己責任を伴った自由意志だ。女性には(もちろん男性にも)自由意志があるわけだから、女性が自分の機能をどうしようが、周りからとやかく言われる筋合いは全くない。ここで、「自由意志」という概念が頭の中にしっかり入っている人は、当人の決断に対し、何の文句も言わず、ただアドバイスするだけだが、果たして。

 

もし、女性に自由意志の行使を認めない場合、その時、周囲の人間はみな、その女性を「子供を産む道具」として認識していることになる。当然、妊娠出産機能を期待するし、それを持たない人、行使しない人、あるいは失った人に対し、差別と偏見を抱くことは目に見えている。

以上の文脈において、女性の人格は否定されている。これを反社会的といわずして、なんといえばよいのだろうか。

 

 

しかし悲しいかな、多くの人間はここに気が付いていない。自分たちが無意識的に差別と偏見を容認しているという事実に、盲目なのである。

 

上辺だけの男女平等の精神、女性に宿る自由意志の否定、そして人格の否定。これが、「女性は子供を産むべき」と平気で言う人間の実態である。しかも彼らは、自分たちが放つ差別と偏見のニオイに無自覚なのであるから、困ったものである。

そして私が、こうした差別的発言をする人間が大嫌いな理由もこれ。彼らのほとんどが、自分たちの実態に無自覚であるわけだから、いくら説明しても、最初から聞き入れられないのである。だから、少なくともこの記事をご覧になった方は、「無自覚の差別と偏見」が存在することを気に留めて頂きたい。認識すれば、差別と偏見を取り除くことが可能となるためである。

 

 

 

<最後に>

出産は権利。それを行使するかどうかは当人が決める。周りがトヤカクいう話ではない。

また、出産における自由意志を行使した結果は、「子どもの誕生~成長」として具現化する。

この子どもの全存在に対し、親は責任を負うことになる。言い換えれば、出産という権利の行使には、絶大な責任が伴うということ。これを自覚したいところです。

 

責任とともに、胸を張って自由意志を行使していきましょう

 

 

それではまた。

人類弥栄!

 

癌の正体と生成メカニズム -正しく癌を受け入れよ-

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前回の記事では、宗像久男先生解説のもと、癌の基礎知識と正しい治療法について一考した。本稿では前回書ききれなかった、がんの正体について一考。なお今回は、並河先生による推論も参考にする。

この記事が、思考の一助になれば幸いです。

 

<ファクト>(宗像先生)

がんの餌はブドウ糖

・細胞そのものの餌もブドウ糖。これは生命が誕生してから今まで変わることのない事実。

・約3億6000年前、我々生命は海から陸に生活環境を変えることに成功。その3億6000年前の海水が、我々の血液である。

→我々の身体を構成する元素の組成が、海水の組成とよく似ている理由はここにある。

・約20億年前に、酸素を利用してエネルギーを生み出すミトコンドリアが誕生。海の中にいた我々の細胞内に混入していった。

・呼吸を止めると細胞内ミトコンドリアは死滅する。そうすると細胞は先祖返りを引き起こし、20億年前の細胞に戻ろうとする。その細胞が「がん」なのである。

がん細胞の正体は、ブドウ糖が餌だった状態に戻った細胞

 

 

<ファクト>(並河先生)

・病やがんは、腸から末端へと広がっていく。

腸はエンジンである

・食べたものは胃で大雑把に壊され、小腸で栄養が吸収、カスが大腸へ送られる。

・血液は小腸で作られる。小腸で作られた血液が体中を駆け巡る。

・小腸がよく機能しないと、生成される血液の質も低下する。

汚れた血液は、体内の臓器等を汚してしまう。

血栓とは、ヘドロ化した血の塊のこと。これが心臓や肝臓に溜まり、病気のもととなる。(肝臓に溜まれば、肝硬変を引き起こす)

・タンパク質で出来ている血管に、糖分と人間の体温が重なると、AGEs(最終糖化産物)という物質になる。するとその血管は、切れやすくなってしまう。

血液は動いているところに集まるから、例えば頭を使っていれば、脳に血液が集中する。脳の近くにある眼に、汚れた血液が巡れば、白内障(コラーゲンが溜まること)、眼の後ろに巡れば、網膜剥離を引き起こす。

 

・乳製品(バター・チーズ・ヨーグルト等)や四つ足動物の肉を採りすぎると、血液が固まりやすくなる。

→四つ足動物は約40度の体温で血液が流れている一方、人間の体温は35度。5度の差が血液を固まりやすくしている。

・固まりやすくなった血液が身体の末端に行くと、関節リウマチ等の症状が出る。

→並河先生の経験によると、関節リウマチに罹患した人の多くが、乳製品、四つ足動物を好んでを食べているという。

・食べたもののカスが体を巡り、体調が悪化する。

 

血栓は時間が経過すると細胞内に入ってくる。それが血餅となる。

・血餅とは血管内で赤血球と白血球がくっつく現象。血餅が細胞内にできると、腫瘍となり、さらに時間が経つと、肉腫(全身の骨や脂肪、筋肉、神経などから発生する悪性腫瘍の総称)になる。

・肉腫も血栓も、糖・タンパク質・脂肪・化学薬品のゴミの重なりである。

⇒がんの正体。

・がんを、「糖鎖にタンパク質・脂肪が絡んだもの」と説明する文書がある。

・おいしいものは、脂肪と糖とタンパク質で出来ている。

・毒物を体外に出せないから体内に溜まる。

・現代人は、身体の内側から弱っている。

 

 

<見解>

それではまず、宗像先生の解説を頼りに見解を述べていく。

宗像先生は、人類の進化という過程の中から、がんの正体を推察している。

生命が陸に進出する約3億6000年前まで、我々は海の中で暮らしていたことが分かっている。その証拠となるのが血液であるという。先生曰く、血液とは、約3億6000年前の海水のことである。この指摘は、海水と血液の組成が似ていることからも、何ら極論ではないと思われる。

 

ここで、勘の鋭い方なら、血液と海水と聞いて、ある犬を想起するのではないだろうか。

その犬とは、「カントンの犬」である。広東の犬ではなく、フランスの科学者、ルネ・カントンの愛犬のことである。

カントンは、愛犬を使って実験をした。その実験内容は衝撃だが、愛犬の血液と海水を入れ替え、赤血球の急速再生を観察するというもの。普通の人間なら、「虐待や!」と騒いでしまうことだが、驚くべきことに、カントンの愛犬は実験前よりも活発になったという。(詳しくは以下参照)

海水を血管に注入する海水療法の恐るべし効果 – 強健ラボ

 

簡単に言ってしまえば、カントンの実験により「血液と海水は同じである」ということが判明したわけである。だから、この事実を知る人の中には、自己免疫疾患を引き起こしかねない輸血をするのではなく、輸海水をすべきだと主張する人もいる。

宗像先生は海水と血液の関係を踏まえた上で、上のように説明しているのだろう。

 

 

続いて、ミトコンドリアについて。

ミトコンドリアは約20億年前に誕生。海の中にいた我々の細胞内に入り込み、酸素を利用してエネルギーを生み出す機能を担うこととなった。ミトコンドリアは体内に約一京個いると言われているが、呼吸を止めると死滅する。

そして次が重要なのだが、ミトコンドリアを失った細胞は、先祖返りを起こし、一人で海の中にいた時の状態に戻ってしまうという。これが、がん細胞であると先生は仰る。

 

つまり、がん細胞とは、太古の昔、海の中で暮らしていた我々の細胞そのものであるということだ。そしてその特徴は、前項で示したように、「ブドウ糖を餌とする」という点。そしてこれは、今の私たちの身体にも当てはまる。

我々の身体は本能的に(歴史的に)ブドウ糖を栄養源としている。それゆえ、がん細胞は日々生まれ続けているのである。もちろん、健康な人にも毎日がん細胞が生まれている。(一日にできるがん細胞の数は、約5000個あると言われている)

がん細胞が一日にできる数|がん検診のススメ|がん対策推進企業アクション

 

毎日生まれるがん細胞と闘う細胞が、免疫細胞(リンパ球)である。つまり、我々の免疫システムそのものが、がん細胞を殺してくれているということになる。こうして我々は日々健康的な生活を送ることが可能となるのだが、逆に言えば、免疫細胞が正常に機能しない時や、免疫力が弱っている時は、がん細胞に対処しきれない。がんが肥大化するきっかけを与えてしまうのだ。

もちろん、免疫力低下だけが、がん肥大化の原因であるとは限らない。動画内で先生が述べているように、免疫細胞が対処しきれないほど強力かつ膨大な量のがん細胞を体の中に溜めてしまうこともまた、原因の一つである。

 

 

以上が宗像先生による「がんの正体」についての解説である。

続いて、並河先生による解説を見てみよう。

 

宗像先生は、地球史・生命史からがん細胞そのものの正体を推察。他方、並河先生は、「がんの正体」というよりも、がん細胞の構成要素から、がんが発生し肥大化するメカニズムを推論されている。

 

まず並河先生は、食べ物が血液に変わるまでのプロセスを大雑把に解説する。

前提として押さえておかなければならないことは、我々の血液は、小腸で作られているということである。胃で壊された食べ物は、小腸にて栄養を吸収されるわけだが、先生曰く、ここで血液が生成される。即ち、食べ物に含まれる栄養が血液の元であるということだ。

そして小腸で生成された血液は、全身へ送られる。ここで、もしも血液の質が悪かったとしたら、どうなるか。当然ながら、汚れた血液は身体の各部位、臓器を汚すことになるだろう。

汚れた血液は血栓を作りやすい。体内を巡る過程で、各地に血栓を作って回ったとしたら、たちまち身体は不調をきたす。例えば、血液が肝臓に溜まれば肝硬変を引き起こすという具合に。

 

質の悪い血液が循環するだけで病気を引き起こすことになるが、さらに追い打ちをかけるかのように、血管そのものが切れやすくなる現象もまた起きる。血管が切れやすくなる理由は上にファクトとして提示したが、原因はタンパク質と糖分の取りすぎにある。こうして、切れやすくなった血管に汚れた血液が流れると、いろいろな病気が身体を襲うことになる。

 

 

血液というものは、よく動かすところに集まる。例えば、学者のように頭を使う人は脳に血液が集まる。ここで、脳の近くにある眼に汚れた血液が集まると、白内障になりやすくなり、眼の後ろの血液の巡りが悪くなれば、網膜剥離へとつながると先生はいう。

 

ということは、痴呆症も同じようなメカニズムで発症するのでは?と、ふと思った。

脳機能をよく使う人の脳には、大量の血液が集まることになるが、もしその血液が添加物まみれで、さらに血管が切れやすくなっていた場合、血液がいわば「毒素」として脳を侵すことになる。それが痴呆症という形で現れるのではないか。

 

続いて、血液が固まりやすくなる原因について。

先生の見解によると、乳製品および四つ足動物の肉を好んで食べる人は、血液が固まりやすくなるという。その原因は、四つ足動物と人間の体温の差に求められる。

四つ足動物は約40度で血液が循環している。言い換えれば、40度近い体温がなければ、血液が固まってしまい、循環しなくなるということである。ところが人間の平均体温は約36度、条件によっては35度になることも当たり前のようにある。この5度の差により、乳製品や動物性たんぱく質を材料に生成された血液は、固まりやすくなるというわけだ。

もちろん固まりやすくなった血液と、破れやすくなった血管の相性が良くないことは、言うまでもない。


以上をまとめると、最初にできた血栓が時間が経って血餅となり、腫瘍そして肉腫になるわけだが、これはがん細胞肥大化の過程そのものではないかと並河先生は指摘する。

 

それでは、血栓や肉腫ができる原因とは何か。それは先ほども述べたように、汚れた血液ということになる。そしてその血液は、食べ物から生成されている。


がんを未然に防ぐためには、どうするか、もうおわかりではないだろうか。

 

 

<最後に>

先生方のメッセージは「何を食べるか、食べないか、そしてどうやって食べるかをしっかりと考えなさい」という一文に集約されると私は思う。がんについていくら情報を集めたところで、結局のところ、実践しなければ意味はないだろう。逆に言えば、今この瞬間から実践し始めれば、無敵になれる

 

また上で述べたように、我々の細胞ががブドウ糖を餌とする限り、がん細胞は毎日生まれることになる。だから根絶することは難しい。したがって我々は、がんを抱きしめ、共生するしかない。

がんを正しく受け入れよ! さすれば健康は手に入る。

 

 

この記事を読んだ皆さんが、一生涯健康でいられることを、切に願います。

人類弥栄!

 

 

ガンは治る、正しい治療をすれば。-宗像久男先生による解説を手掛かりに-

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本稿のテーマは「ガン(癌)」。

ガンと聞くと、「不治の病?」、「死を連想する」など、多くの日本人は不安を覚えると思われるが、当然のことである。なぜなら日本の死因第一位はガン、年間約40万人がガンで亡くなっているからである。一日約1200人が「ガン」を理由に亡くなっているわけだ。このファクトを目の前にして、恐れを抱かない人間はあまりいないだろう。しかし一方で、「ガンで亡くなることは当たり前、よくあることだ」と、ある意味、ガンに慣れてしまった方もおられると想像する。

 

しかし私は、こうした現状および、ガンに対する評価は間違っていると断言したい。

まず、普通に考えて、一年間で40万人近くも亡くなるということは異常ではないか?お茶の間を騒がせているコロナでさえ、日本の累計死者数は約3000人である(もちろん、全員がコロナを原因に亡くなったとは限らない)。それに比べ、ガンでは一日約1200人の死者数。三日でコロナを凌いでしまうわけだ。ガンと比較してしまうと、コロナそのものの毒性、そして危険性にかんしては、かなり怪しいと思わざるを得ない。

 

ところが現在では、多くの人間がコロナを真面目に恐れ、真面目に対応に追われている現状がある。ガンや発達障害等、解決に力を注げなければならない問題が山ほどあるというのにもかかわらず。

人々がコロナに振り回される理由はいろいろ想定されるが、その最たる理由は、医師会がコロナを感染症法「第2類相当」と判断しているからだろう。コロナを入院勧告や就業制限がかけられる2類相当としているから、医療体制が揺らいでいるのである。

つまり、最初から対応を間違えているのである。問題の根っこを引き抜かない限り、どうあがいても現状が改善されるとは思えない。逆に言えば、原因さえわかれば問題は一瞬で解決する。その解決法とは、2類から5類に引き下げること、そして通常のインフル検査同様、症状のある人間だけ検査を受ければいい、これだけだ。これを実行するだけで、医療従事者の負担がグッと減ると見込まれるが、果たして。そして何より、これまでコロナに注いできた労力を、喫緊の課題に向けられるようになる。

 

例えば、毎年40万人が命を落とすガンの治療にお金と労力をかける、あるいは、カンガルーケア、完全母乳育児を見直して、発達障害件数を減らす努力をする。さらには、毎年約2万人が入浴時に亡くなっているというファクトもあるから、「入浴時に細心の注意を払って」というメッセージを強く発信する等々、我々の住む日本には数えきれないほどの課題が存在するわけだ。そしてその解決に宿る社会的意義は計り知れない。

 

 

以上のように、普通の感覚として多くの人は物事の重要性を見誤っているといえる。これは、季節性ウイルスよりも「ガン撲滅」の方が優先順位が先であることからも容易に想像されることと思う。

 

それでは、なぜ多くの人間がガンによる死亡件数を問題視しないのか。

それは単純に、問題として認識していない(できない)からだろう。「ガン⇒死」という図式があまりにも日常的なものとなってしまった今、ことさらガンで騒ぐ必要もない。そう判断する人間が増えていくのも頷ける。また、度重なるガン死の報道を耳にしたり、身内の人間がガンに侵され、やつれ果てる姿を見届けたりした結果、我々人間はガンを前にしてあまりにも無力であるということを痛感させられた人もまた多いはずだ。

こうした人々にとって、ガンとは悪魔的存在である。真面目に議論しても体力と精神力を奪われるだけだから、なるべく見ない、聞かないことに徹した方がいい。そんな無駄なことをするよりかは、感染リスクを防げる可能性のあるウイルスに対し、できるだけのことをした方が人類のためになるのではないか。

 

おそらくこういう理由で、日本人の多くは無意識的にガンを視界から遠ざけているように思われる。単純化すれば「怖いから見ない」ということになる。逆に言えば、今我々の認識下にある情報というのは、フィルターを通して「怖くない」と判断された情報だけである。本当に怖いと思う情報は、絶対に見ようとせず、意識に上がらないものだ。

 

本稿では、日本人の多くが見ようとしてこなかった怖い情報に対し、真正面から向き合っていくこととする。ガンを本気で怖いと思っている方は、いくらか恐怖が中和されると思われる。

 

 

今回参考にする動画を上に貼り付けたが、ここに詳細を記そう。

コロナ禍への疑問を投げかけ、医学批判そしてがんに対する正しい知識と治療法を解説してくださるのは、私の尊敬する宗像久男先生(の兄と紹介されているが)。以前記事でご紹介した細川博司先生や久保田史郎先生と同じ医者である。先生方に共通するのは、「自己批判的」という点である。

 

自己批判的とは、自己存在や自分の所属する団体、組織、そして職業に対する、懐疑的・批判的態度のことをいう。端的に言えば「医者って信用ならないよね」と主張する医者のことである。もちろん、医者のみならず、全ての職業従事者に求められる態度であることは言うまでもない。

自己批判的精神を身に付けている方々はまず、そうでない人間にはない視点を持っている。例えば、頑固で権威主義的な医者は、もともと医者を聖職として認識しているわけだから、「医者や医学は絶対に正しい」、「人類に必要不可欠である」というある種の歪んだ信念を抱きやすい。そして彼らは自分の信念に対する反論や疑念を一切受け付けようとしない。極端に言えば、「無知な一般人は無条件に医者の言うことに従っていればいいのだよ」という医者になるが、彼らは時間と空間を超越してどこにでもいる。

 

彼らの最大の問題点は、思考停止しているという点。自らの職業の社会的地位に甘んじた結果、勉強と思考を放棄している実態は誰の目にも明らかだろう。知り合いの学者が仰っていたが、「学者になることを目的にした人間は、学者になった瞬間に勉強を止める」という。学者、あるいは医者だからといって、誰もが日々自己研鑽に励んでいるわけではないのである。

こうした症状は、「とりあえず、社会的地位のある職種に就ければいい」と考えるトンデモ人間に多い。本来、医者免許を取得すること手段であって、目的ではないはずだが、彼らは両者をはき違えてしまっているのだ。

 

そして彼らには、「自分たちは間違っている可能性がある」という視点が一切ない。だから彼らは、間違った知識を盲目的に信じたり、教科書に書かれていることをそのまま運用することを厭わないわけである。

しかしそれでは、医者という機能は「公害」ということになる。間違った知識を、検討を加えることなく運用し、社会に害悪しかもたらす可能性があるからだ。そんな職業は消えてなくなった方がいいのではなかろうか。

 

以上のことを、医者でもない人間が主張するのはとても簡単なことである。なぜなら、医者ではないし、その職業がどうなろうと知ったことではないからだ。もちろん救急医療等必要な部分はあるが、その他の公害になりうる領域は消えようが縮小されようが、どうでもいい。とりあえず、国会で審議されない特別会計に含まれる医療費は小さくする、それさえ実現できれば医者はどうなってもいい、という突き放した見方ができるわけだからだ。

 

当然のことだが、こうした提言を普通の医者がするわけない。なぜなら自らの職業を否定することになるからである。医者を志願する人間のほとんどは、社会的洗脳を受けた結果、医者という職業に敬意を払い、社会的地位が高い存在と見なしている。そして医者になる自分たちをエリートであると自負しているに違いない。しかし残念ながら、彼らの言うこと為すことには信用が置けないのが実情。自己批判的精神が欠如してしまっているため、間違った知識を平気で患者や次世代に伝えるし、反省する動機も薄いのである。

 

こうした状況の中で、発言に信憑性があり、また信頼できる存在とは、細川先生、久保田先生、そして宗像先生といった自己批判的精神を持ち合わせた医者しかいないと私は考える。そのため、先生方のご著書や動画等は、その価値を見出した人間にとっては、非常に有益でありかつ貴重である。私の意見に賛同する方がおられたら、ぜひとも沢山の情報を知識として収集することをお勧めする。大量の知識を頭の中に築き上げることができれば、胡散臭い情報に惑わされることも減る。何より、人生において、自由な選択を下す際の判断材料になるでしょう。それが最も大切なことです。

 

それでは以下、ファクトと見解に分けて記すとしよう。

この記事が、思考の一助になれば幸いです。

 

<ファクト>

・DNAは二重らせん構造だからワクチンができるが、一本鎖RNAの場合は、ワクチンの開発に数年はかかる。

・医者の卵が最初に覚える概念は「未必の殺人」。

・劇薬である抗がん剤をがん患者に投与した後、その患者が亡くなることがある。その時に「まさか死ぬとは思わなかった」と言えば、医者は殺人罪に問われない。

・一般人が身内のがん患者に抗がん剤を投与し、その人が死んでしまったとしたら、投与した人間は殺人罪に問われる。

・コロナが原因で死んだとされる人間は約3000人。ガンでは一日1000人。

・医者は学校で「ガンは治らない」という教育を受ける。そのため医者は、患者がガンで亡くなったり、抗がん剤を投与して亡くなったとしても良心の呵責を感じないという。

 

抗がん剤投与後、骨髄がやられる。血液、白血球、そして血小板がダメになると、患者は血小板減少症に陥る。(基準値150,000~350,000μl→約70%減少)

・血液が固まらなくなると、微小血栓が毛細血管を詰めることになり、やがて多臓器不全を起こす。

抗がん剤投与後、身体全体を巡ってカビやばい菌を食べてくれる顆粒球(白血球 のうち骨髄系の細胞の一つであり、細胞質内に豊富な顆粒《殺菌作用のある成分》を有するのが特徴)が死に絶える。その結果、肺がカビ・ばい菌だらけになり、肺炎を発症する。

・ちなみに顆粒球の寿命は約二日。

・某保険会社は、ガン患者であっても死因が肺炎であれば、保険料を支払わないらしい。

 

・副腎から分泌されるノルアドレナリンは、酵素によってアドレナリンに変わる。

・不安や恐怖を感じて分泌されるノルアドレナリンは、コブラの毒の3倍も強力。

→ストレスは健康の敵。

 

ガンの餌はブドウ糖

・細胞そのものの餌もブドウ糖。これは生命が誕生してから今まで変わることのない事実。

・約3億6000年前、我々生命は海から陸に生活環境を変えることに成功。その3億6000年前の海水が、我々の血液である。我々の身体を構成する元素の組成が、海水の組成とよく似ている理由はここにある。

・約20億年前に、酸素を利用してエネルギーを生み出すミトコンドリアが誕生。海の中にいた我々の細胞内に混入していった。

・呼吸を止めると細胞内ミトコンドリアは死滅する。そうすると細胞は先祖返りを引き起こし、20億年前の細胞に戻ろうとする。その細胞が「ガン」なのである。

⇒ガン細胞の正体は、ブドウ糖が餌だった状態に戻った細胞。

 

・暖めればガンは治る。

丸山ワクチンの開発者、丸山先生は、身体が40度以上の熱を発すればガンが消えることを発見した。

・体温が上がる人は治るが、上がらない人は治らない。それでは、なぜ体温が上がらないのか。それは、熱を出せるほど細胞に栄養がないからである。

・細胞内の主なミネラルはカリウム、リン酸、タンパク質。ガン患者を診ると、全員がこれらが最低値であるという。

・細胞内には膨大な量のカリウムがプールされている。ガン細胞を殺しすぎるとカリウム量が上がってきてやがて心臓が止まる。だからガン細胞を殺しすぎてはいけない。ほどほどに。

戦前は日本にガンなどなかった

 

 

<見解>

 宗像先生は難しい医学の話も簡単に、そしてユーモラスに説明してくださるから、私としてはとても頼もしいお方である。ただし、話の内容は結構キツイ(笑)。例えば、医者になりたてほやほやの新人が一番最初に教わることとして「未必の殺人」というものがあるのだそう。

抗がん剤等の投与後、患者が亡くなってしまったとしても「まさか死ぬとは思わなかった」と言えば、その医者は殺人罪に問われない。医者が一番最初に覚えることは、自分の保身の術なのである。もちろん医者にとっては不思議なことではないだろう。なぜなら学校の授業や教科書には、「薬の副作用で患者が死ぬこともある」あるいは「ガンは治りません」と書かれているからだ。前提として患者への治療には「死」が付いて回るわけだから、医者が自分の保身にかんして神経質になるのも理解できる。

 

しかし、宗像先生が仰るように、そもそもガンとは不治の病なのだろうか?もし、ガンが治せる病気だとしたら、教科書や学会が間違っていることになるが、そうした場合にも、彼らは「未必の殺人」を引き合いに出し、自らの保身に全身全霊をかけるのだろうか?そうだとしたら、それはかなりおかしい話ではないか。

 

ところが悲しいことに、教育による影響はすさまじいものがある。親や先生から「ガンは治りませんよ」と教われば、あるいは社会的通念、常識として認識されていれば、「ガンは不治の病である」という信念が生まれ、日々強化されてしまう。そうした人間を説得するのは、一筋縄ではいかないだろう。もちろん医者のみならず、患者や患者の家族も同様である。社会全体で一つの信念を共有しているわけだから、「ガンは治るぜ」と言ったところで、だれも見向きはしない。

 

その結果が、年間40万人の死者数というデータで表れているのである。これは、思考停止の結果である!「ガンは治らない」と刷り込まれた時点で思考は停止。医者は自分の保身を考えるし、患者は抗がん剤に手を出すことになる。その結果として毎年何十万もの人間が死んでいるとしたら、虚しい限りではないか!

 

本稿は、こうしたおかしな現状を打破するための一助になると私は確信している。

まず、宗像先生が仰るように「戦前は日本にガンなどなかった」のである。ここから、ガンが不治の病ではないということが読み取れるわけだが、どういうわけか多くの人間は見落としてしまっているようだ。なぜそんなことがいえるのかと言えば、戦後になってからガン患者が増え始めたということは、戦前から戦後への生活様式の変化の中に、ガンを発症する原因があるということを示唆しているからである。

 

それでは、他のファクトを引用してガンの原因を探ってみよう。

まず、丸山ワクチンの開発者、丸山先生は体温とガンの関係に注目し、体温が40度以上になればガン細胞が減少し、反対に、体温が低いままだとガン細胞は減少しないことを突き止めている。

それでは、体温を上げるにはどうすればいいのか。宗像先生によると、身体から熱を出すには細胞内に栄養がなければならない。ということは、体温が上がらない人は、体の細胞が栄養不足に陥っているということが示唆される。

 

ここである疑問が浮かぶ。この飽食の時代に栄養が足りないことなどあるのか、という疑問である。食料廃棄が深刻な問題となる中で栄養不足になるわけがない、そう考える人間がほとんどであると想像する。

こうした疑問に対し宗像先生は、「我々は戦後、加工食品というものを食べさせられてきた。確かにタンパク質や脂質は摂取することはできるが、加工食品にミネラルは全く含まれていない。これが栄養不足の原因である。」と仰る。(書籍参照)

 つまり、加工食品の誕生により、現代人は大量の炭水化物を摂取することが可能となったものの、同時にミネラルを手放すことになってしまったということになる。

 

以上のことから、食生活の変化がガン罹患率の増加に影響を与えていることが分かる。したがって、ガンという病気は生活習慣病であるとも言えるわけだ。遺伝的要素もないことはないと思うが、細川先生曰く、遺伝は全く関係ないらしい。「誰から生まれた」 は言い訳で、「どう生きるか」が肝要だということだ。

 また肺がんにかんしては、「タバコを吸っているから肺がんになる」というのは不正確な表現である。これではタバコが可哀そうだ。正確には、「タバコに含まれる保存料、添加物等の化学物質が肺がんを生じさせる」と言うべきである。

こうした基本的なことも知らずに、「ガンは遺伝だからどうしようもない」、「タバコを吸ってても、ガンになる人はなるし、ならない人はならないよね」などと平気で言う人間がゴマンといるのがこの日本なのだ。

 

 

それでは最後に、「ガンの餌はブドウ糖」という一文を掘り下げよう。

なぜ先生はブドウ糖がガンの餌だということが分かったのか。それはPET検査の手順を読めばわかる。

PET検査とは、ガンなどの病変を検査する画像診断法の一つで、微量放射線で目印をつけたブドウ糖を体内に投与してから、専用のカメラで撮影すると、がん細胞が光っているように表示され、がんの位置や大きさが分かる

https://www.pet-net.jp/treat/pet/

 

要は、釣りと同じ。餌(ブドウ糖)で魚(ガン)を釣る(発見する)のである。ガンの餌が分かれば、後は餌を断てばいい。ブドウ糖の摂取量を減らせばいいだけである。

 

ひょんなことからガン対策の方法は見つかる。もちろん動画内においては、これ以外にもガンを予防する方法がいくつか紹介されているから、ご視聴をお勧めする。なお、ファクトの後ろの方に書いた「ガンの正体」については、かなり重要だと判断したため、別の記事にしてまとめることとします。

 

 

ではまた。

人類弥栄!

 

 

 

 

なぜ占いを信じた瞬間に人は死ぬのか?

<記事をご覧いただきありがとうございます>

 

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本稿のテーマは占い。占いを信じることの意味について、そして、テレビやラジオなど、公共の電波を通じて占いを放送することの弊害について一考。

 

この記事が思考の一助になれば幸いです。

 

 

最初に「占いを信じる」とは何を意味する行為なのかを考えよう。

私は、占いを信じるということは人生を放棄したことと同じである、と考える。この前提を踏まえた上で、文章を読み進めて頂きたい。

 

占いとは、何の根拠もない戯言にすぎない。これは私を含む占い懐疑派なら誰しも共有する認識であると思われる。ところが、占いを盲目的に信じる人は後を絶たない。批判的精神を失った老人ならともかく、社会を背負って立つ若者、3、40代のいい大人が占いを信じているとは、どういうことなのか。理解不能

 

占いへの疑惑は尽きない。根拠はないし、占い師がウソをついていない確証もない。それにもかかわらず、「それでもいい!」と無謀にも占いに絶大な信頼を置いている方をたまに見かける。表には出さないものの、内心では「実は自分も信じている」、「聞き入ってしまう」と考える方もまた、大勢いるのではないだろうか。

 

もちろん信仰の自由が認められた今、占いを内心で信じることには問題はない。しかし私は、そのような人たちに対し「本当に占いを信じていいの?」と思わざるを得ない。

 

なぜなら占いを信じるということは、極めて愚かな行為であるからだ。

それではどこが愚かな行為なのか。中には、「信仰の自由がある!」、「これまで占い通りに生きてきて、良いこと尽くしだった。だから占いを信じる。とやかく言うな」という人も確実にいると想像する。

 

しかし彼らはある重要なことに気がづいていない。占いを盲目的に信じた結果、大事なことが見えなくなっているのである。

その大事なこととは、「自分で選択する」行為である。彼らは、占いを信じた結果、自分で選択することを放棄しているのである。

自分で考え、自分で選択することを放棄したということは、それは自分の人生を放棄したことと同じであり、その瞬間からその人は生きる必要がない。つまり、「死んだ」のである。占いを信じることで人は死んでしまうのである。

 

人生における選択は自分で下す。それが「生きる」という行為であるはずだ。それを放棄したというのだから、自分で自分の人生を捨ててしまったわけだ。

こうした人たちは、自分の手で人生を切り開きたいと願う人たちにとって邪魔な存在でしかない。社会としては、自分で選択したいと思う人が多数を占めるはず(というか、そうであるべき。)だから、占いを信じる人は、社会に必要のない存在であるということができる。

 したがって、占いを盲目的に信じる人は、反社会的存在であるといえる。そして人々に反社会性を植え付ける可能性のある占いもまた、反社会的行為である。

 

 

また、なんの根拠もないことから幸せは得られない。根拠のないことに喜びを感じたり幸せを感じることほど、悲しいことはないだろう。それは幸せではなく、単なる思い込みである。

占いを信じている間は恍惚感に浸っていられるが、一度、根拠のなさに疑問を抱いてしまったら、もう幸せを感じることはなくなる。だから、占いというのは一種の幻想製造装置ということもできる。しかし、単に幸せな幻想に包まれたいのであれば、脳内のセロトニン量を増やせばよいだけではないか。凶と出る可能性のある占いを信じるよりも、向精神薬を飲んだ方が、確実に幸せになれると私は思う。

 

参考までに、 ある薬剤師の方はこう言った。

精神科としては、患者が何も考えなくなってくれた方が都合がいい」と。

 

 

根拠のなさを突き詰めれば、それはやはり、占い師の胡散臭さに尽きるだろう。

もちろん、占い師にハマり、個人的に信奉している人々は、我々占い懐疑派の論調が気に入らないと予想される。しかし、よく考えてみれわかることだが、自分の明日もロクに占えないような人間の占いなど、信じるに値するものなのだろうか。徹底的に占って、あらゆる試験の答案を予想して合格できるし、ライバルによる妨害工作を未然に防ぎ社会の上層部に仲間入りすることもできる。あるいは、ありとあらゆる利権にアクセスして世界を牛耳ることだって、占いが得意ならば不可能ではないはずだ。それをしてから、「私の占いは当たりますよ」と言われれば、「おースゲー」となるが、果たして?

自分の占いは後回しにして、世のため人のために占いをしてくれる人間とは一体

 

 

さて、話は変わるが、日本で占いが流行る理由は主に2つあると考える。

一つは、「困ったときの神頼み」というように、日本には占いが根付きやすい文化的土壌が存在していること。神社に行けば、5円か10円で神にお願い事ができるし、おみくじも堂々と販売されている。

そう考えれば、日本人というのはつくづく幸せな民族である。5円か10円かそこらでご利益を期待する民族は、世界広しといえど、日本人以外にはいないのではないだろうか。

 

もう一つはテレビやラジオなど、公共の電波で占いを流しているという事実。多くの人が何となく占いを信じ、占いに期待してしまう最大の理由は、ここにあると私は考えている。ここからは、公共放送にて占いが流れることの弊害について。

 

前提としてマスメディアは、権力による支配を強化するために存在している。故に、テレビ(あるいはラジオ)を無批判に見るという行為は、「私は権力に従います」という意思表明であり、それがテレビを見ること本質。

そんな、公共の器であるテレビが、占いを流すとどうなるか。我々は、ここにあるメッセージを読み取らなければならない。

 

そのメッセージとは、「考えることをやめなさい。人生を権力に譲り渡しなさい」というものだ。もちろん、テレビ各局のプロデューサーや番組製作者たち、ニュースキャスター、その他タレント等は、自分たちがこうしたメッセージを発しているという自覚はないだろう。しかし、彼らはテレビを通じて「人生を捨てなさい」というメッセージを確実に発しているのである。これは極めて反社会的な話ではないか。

 

しかし、メディア側としては反社会的であっても差し支えはないはずである。というのも、メディアは社会のために存在していないからだ。彼らは権力と一体になっているため、反社会的なメッセージを発信してもいいと思っている。そこで占いが利用されたのである。占いのもつ反社会的影響と、メディアが潜在的にもつ反社会性は相性がいいというわけだ。

 

ただし、占いをテレビ、ラジオといった公共の器で流すことは放送法違反である。さらに言えば、占いは人々の生命時間を毀損し、人生の質を低下させる可能性もある。したがって、憲法違反と指摘されても何ら不思議ではない。

 

占いは、個人の趣味として心の内に留めておくべきものである。もちろん「なんとなく信じている」程度で、他者に迷惑をかけないレベルなら問題はないだろう(信じないことに越したことはないが)。なぜなら万人には信仰の自由が認められているからである。

 

それを公の場に発信したり、公共の電波に流したりするのが問題なのである。反社会的な内容を含む情報を、お茶の間に流すことはどう考えてもおかしい

 

朝の情報番組で流れる占いの結果も言語道断。以前目撃した、「〇〇座の方、ごめんなさい」というアナウンサーには、狂気さえ感じたくらいだ。

なぜか。それは、「ごめんなさい」ということで、そのテレビ局が視聴者の今日一日の命運を握ったということを示唆しているからである。あたかも、「悪いけど、今日は失敗してね」とテレビ局に言われているようなものである。それを、なんの責任もないアナウンサーが平気で放言する有様は、まさに狂気としか言いようがない。

 

情報番組の一部に組み込まれた占いはたかだが1,2分の尺しかないが、それでも占いを信じて止まない人、あるいは、少しでも占いの結果が気になる人は、テレビに目を向けてしまうことだろう。そしてその数分間の間に、今日一日の雰囲気が「凶」と決められてしまうとしたら、どうだろうか。しかも、公共の電波によって。

ところで、祖母に聞いた話によると、どうやら夜中の1時間枠で占いに特化した番組が存在しているという。祖母はその番組がお気に入りらしいから、彼女に占いの怪しさを説いても無駄であった。占いを盲目的に信じている人たちは、皆、同じ反応するのだろうか。困ったものである。

 

 

以上のように、日本はもともと占いが根付きやすい文化でありつつ、メディアがそれに拍車をかけた結果、日本人の多くが占いを信じることになったと思われる。

もちろん個人の信念として占いを信じるのはOK。それを公共の電波を通じて発信することがNGなのだ。この基本を理解していれば、占いがテレビで放映されることなくなるだろう。しかし、そうはなっていないのは、番組制作陣の教養の無さに原因があるとしか思えない。

 

いずれにせよ、占いを公共の電波を使って流すことは絶対禁止にすべきである。テレビも見ないほうがいい。マトモな人間なら、テレビなど見ないはずだが、日本人はどうだろうか。

 

 

最後に、占いは信じるべきではないが、本気で信じたいと思っている人は、別にそれでもいい。しかし、人は占いを信じた瞬間に、他人に人生を譲り渡したということを肝に銘じておくべきだと、私は思う。

 

人類弥栄!